ヒマだ。映画でも観るか。でもいったいなにを観よう。絶対失敗はできんぞ。そんなときはこのコーナーアクセスしてください。なんにもやることがない夜のおとも。ちょっと奇妙な映画紹介コーナーです。
(ライター・堀田純司)
第24回 「シリーズ第3の壁」続編論その6
(前回の続き)たとえば、女性型ターミネーターが登場した「ターミネーター3」、あるいは原作から独自ストーリーに挑んだ「ジュラシックパーク3」のように第3作目が微妙であったり転機になったシリーズ物は数多く、ここからライフサイクルを一時終えてしまったり別物に変形していく作品も少なくない。
1997年の映画『スクリーム2』
では、続編(特にホラー映画)の定番メソッドをパロディにしながら、同時に面白い続編をつくって見せるという離れ業をやってのけたが、このシリーズも「3」
で一時、ライフサイクルを終えた。
「スクリーム」の場合は映画作品(ホラーだが)のメソッドに対する自己言及を頻繁に行いながらストーリーを進めるのが特徴になっていたが、パロディにしようにも3作目のメソッドがそもそもなかった。もしやるとすれば「3はみんな微妙なんだよね」という自嘲をまじえながら、いかに「3作目のジンクス」を打破するかに挑戦するという構造がよかったのではないかと思う。
ちなみに3作目の壁を越えると、あとは吹っ切れたように息を吹き返す作品もあれるが、その特徴は「あまり細かいことにこだわらなくなった」もしくは「時間が経って、喉元過ぎて熱さを忘れた」ではないかと思っている。
「エイリアン」の場合、第4作目は『デリカテッセン』
(1991)の異才、ジャン・ピエール・ジュネが監督。ここで一度ライフサイクルを終えたが、このシリーズでは、ジェームス・キャメロンやデヴィッド・フィンチャーのような新進気鋭や、異才に続編の監督を任せるという伝統も面白かったが、2作目が大成功したのは、ただ才能だけではなく「女性へのこだわり」点で、監督の資質にも共通点があったからだと思う。
「エイリアン」シリーズの場合、珍しく、敵である「エイリアン」と女性主人公リプリーがセットになって続編に継承されるパターンだった。
この作品では、男性の商業主義や、視野の狭い対応がもたらしたピンチの中、リプリーの持つ「母の強さ」が生存への道を切り開くのだが、初作のリドリー・スコットはフェミニズム的なテーマを持つ『テルマ&ルイーズ』
(1991)や、デミ・ムーアが坊主になって奮闘した『G.I.ジェーン』
(1997)の人でもあった。
そして第2作のジェームス・キャメロンも、夫が妻をだまして目の前でポールダンスを踊らせるという『トゥルーライズ』
(1997)や、他作品にもチラ見えする手がかりを見る限り「母性」もしくは「女性」に対して独自のこだわりがある人だ。第2作へのバトンタッチがうまく行き、より大きくブレイクした理由は、単に「優れた才能を持つ監督に任せた」からだけではなく、ここに理由があったと思っている。
ちなみに第4作『エイリアン4』
では、エイリアンがリプリーを「自分の母だ」と誤認するという展開が出てきた。ジャン・ピエール・ジュネには「エイリアンとは母が宇宙怪獣と戦う映画だ」という認識があったのかもしれないが、いかにもこの人らしいヒネリである。「エイリアン」シリーズはこの4作でひとたび休止するが、『エイリアンVS.プレデター』
としてエイリアンのほうは活躍を続けている。架空のキャラとは違い、現実という制約がある俳優にとっては、シリーズとしてあるキャラクターを演じ続けるのは、だいたい平均すると4作品くらいが限度なのかもしれない。
