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(ライター・堀田純司)
第16回ゾンビ映画クロニクル その6
ダイアリー・オブ・ザ・デッド プレミアム・エディション [DVD]
『ダイアリー・オブ・ザ・デッド』の舞台は現代。アメリカの田舎で大学の課題として映画を撮影していた学生たちが、ゾンビの発生という未曾有の事態の中、必死で情報を求め、キャンピングカーで故郷を目指す。そして課題映画の監督だったジェイソンはこの全人類の危機を記録していくことがおのれの使命だと確信し、あらゆる場面を映像に残そうとしていた(友人がゾンビに襲われても撮影している映画の鬼と化していた)。この作品は、彼、ジェイソンが残した映像を編集し、音楽など追加して演出を加えた映画作品なのである、という設定。
こうしたモキュメンタリーの手法で乗り越えばならないハードルは、「映画なんか撮っている場合ですか」「テープはいつ入れ替えたのか」などの、他者の懐疑、そして自己懐疑に立ち向かわねばならないところであろう。この作品では、その辺りは非常に丹念で、バッテリーを充電する描写をきちんと行い、またジェイソンによって頻繁に「なにゆえに私は映画を撮っているのか、撮らねばならないのか」と説明させていた。筆者は愛があるから大丈夫だが、こうした説明は見方によっては「言い訳」でもあり、「もういいじゃん。いっそ、そこはぶっ飛ばしつくれば」とすら感じるほどである。『クローバーフィールド/HAKAISHA』のように、最後までノンストップで無限カメラがまわり、しかもなぜか音声がドルビー5.1チャンネルで録音されている不思議があっても、そんなことは小さい、小さいと平然としている例もあることだし。このあたり、この映画の評価が分かれる原因のひとつであろう。〈続く〉
ゾンビ映画の太祖、ジョージ・A・ロメロが2007年に公開した映画『ダイアリー・オブ・ザ・デッド』では、いわゆる「モキュメンタリー」の手法が採用されていた。登場人物がカメラを構え、ドキュメンタリーの手法で筋を追っていくという、『ブレア・ウィッチ・プロジェクト』(1999)や、『クローバーフィールド/HAKAISHA』(2008)で行われているアレである。
正直、この手法については、普段ならば「登場人物はそこにカメラがないフリをしている」とひとつウソをつけばいいところが、「そこにカメラはあるんだけど、それは映画のカメラではないフリをしている」というややこしいウソをつかねばならず、その制約のために、どの映画を観ても同んなじような表情になってしまうなどという人もいて(すみませんでした。正直、筆者の意見でした)、意外とこの手法はむしろコメディにむいているような気がするのだが、さすがジョージ・A・ロメロ。ただ単に「流行りの手法を取り入れて、緊迫感を出して見ました。目先も変わったよ」などという安易な企画では断じてなかった。この映画でロメロは、近年、新たに登場した「ウインドウ」を、映画のウインドウに取り込もうとしていたのである。
『ダイアリー・オブ・ザ・デッド』の舞台は現代。アメリカの田舎で大学の課題として映画を撮影していた学生たちが、ゾンビの発生という未曾有の事態の中、必死で情報を求め、キャンピングカーで故郷を目指す。そして課題映画の監督だったジェイソンはこの全人類の危機を記録していくことがおのれの使命だと確信し、あらゆる場面を映像に残そうとしていた(友人がゾンビに襲われても撮影している映画の鬼と化していた)。この作品は、彼、ジェイソンが残した映像を編集し、音楽など追加して演出を加えた映画作品なのである、という設定。
こうしたモキュメンタリーの手法で乗り越えばならないハードルは、「映画なんか撮っている場合ですか」「テープはいつ入れ替えたのか」などの、他者の懐疑、そして自己懐疑に立ち向かわねばならないところであろう。この作品では、その辺りは非常に丹念で、バッテリーを充電する描写をきちんと行い、またジェイソンによって頻繁に「なにゆえに私は映画を撮っているのか、撮らねばならないのか」と説明させていた。筆者は愛があるから大丈夫だが、こうした説明は見方によっては「言い訳」でもあり、「もういいじゃん。いっそ、そこはぶっ飛ばしつくれば」とすら感じるほどである。『クローバーフィールド/HAKAISHA』のように、最後までノンストップで無限カメラがまわり、しかもなぜか音声がドルビー5.1チャンネルで録音されている不思議があっても、そんなことは小さい、小さいと平然としている例もあることだし。このあたり、この映画の評価が分かれる原因のひとつであろう。〈続く〉
(次回2月22日)
