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(ライター・堀田純司)
第8回『機動戦士Zガンダム -星を継ぐ者-』 2005年 その2
これが1979年放映の『機動戦士ガンダム』になると、ずいぶんと状況が変わります。この作品の舞台は、宇宙植民地が起こした独立戦争。よく言われるように、必ずしも二元論的に「善い者、悪者」でくくれない舞台ですが、しかし戦争を起こしたジオン側はザビ家による独裁体制で民主主義は機能していない。また戦争の手段を選ばない。もう一方の連邦側は腐敗はしているし、弊害は多数見られるけれども一応は民主主義という色分けがありました。
双方には双方の論理があるのですが、彼ら「大人の起こした戦争」に巻き込まれた主人公たちは、最初は戦うことの意義を「自分と仲間の命を守る」ことに見出し、やがては大人の社会へと参加していくことになります。
象徴的なのは、戦闘を拒否するアムロが、すでに社会秩序の中にいたブライトさんに殴られる。そうすると私的にガンダムを運用して逃げていってしまうところですね。そこには『宇宙戦艦ヤマト』にある「公的な使命に参加する陶酔」はみじんもありません。しかし現代人らしいアイデンティティのゆらぎは見られます。
その後、アムロは仲間の危機にガンダムで駆けつけますが、ブライトさんは確か、そのアムロを戦闘後に営倉に入れてしまったと記憶します。これは当然で、戦場で公の任務を放棄して逃亡することは、どこの国の軍隊でも大変な重罪。もっとも当時のアムロが軍人かどうかは微妙なところで、独房への隔離は妥当なところだったでしょう。
しかしそんなアムロもやがて、大人の事情に対応することを覚え、軍隊秩序の中に組み込まれていきます。それが「戦争の機械」として感覚がマヒしてしまったのか、ララァをめぐるシャア・アズナブルとの私的な戦いに決着をつけたかったのか、それとも、とにかくこの戦争を一刻も早く終わらせることを考えていたのか。おそらくはそのすべてが渾然となっていたのでしょう。
この作品が放映された1979年は、エズラ・F・ヴォーゲルが『ジャパン・アズ・ナンバーワン』を刊行した年。日本社会が豊かになるという目的を、物質的には達成しつつあった時期でした。
これが本コラムの主題である『機動戦士Zガンダム』になるとさらに変わります。この作品の特徴は、もはや登場人物のほとんどが私的な欲望を追いかけてばかりで、公的な使命を果たすという意識を持って行動していたのは、エリート官僚層による全体指導こそが優れた統治であると考えるジャミトフ・ハイマン、スペースノイドの自治を掲げ反地球連邦運動のリーダーであるブレックス・フォーラ、次世代は女性の時代であり、自分はそれを迎えるために戦うと、うそぶいていたパプテマス・シロッコぐらいです。
私より公を優先したと人いえば、ザビ家再興のために滅私の気持ちでいたハマーン・カーンを忘れてはなりませんが、この人は「ひとり封建制度下」にいた人なので、本コラムでのべる公と私とは時代が異なります。
(次回12月14日)
